本『ごろごろ神戸』を借りて読んだので感想を。
自分は神戸に長く住んでいた。金はないけど時間だけはあった学生の頃は三宮の東の端はサンパルの古書店から始めて、三宮のセンター街で、あかつき、新刊書店のジュンク、元町は高架下に入って何軒もの古書店を、最後は高速神戸を超え、新開地までにある卓球場と向かい合った古書店を回る。重ねて積んである古書は一応ずらして全部チェック。帰りは元町商店街を通って歩いて帰る。歩いて歩いて、西に東に。ちなみに東西だと高低差がないのでそうまでキツくない。南北移動は傾斜にやられる。
さて、本の著者、平民金子氏は元の出身は大阪で、阪神淡路大震災の後いっとき神戸にボランティアでいたことはあったらしい。長らく東京在住ののち、私的転機に合わせて神戸へ越す。神戸のいわゆる「下町」の雑然とした商店街を好み、街歩き。幼い子どもをベビーカーに乗せてごろごろ歩く。
とてもおもしろく興味深く読んだのは主に序盤で、神戸という土地の具体的なものに絡めた自分及び幼子に関わる記述だった。中盤以降だんだんと、著者の内面/脳内の表出が増える。ノスタルジー憧憬。昭和の景色を懐かしむ、しかし懐かしさだけでは現代は立ちゆかん、ということも頭では分かってるんで、という行きつ戻りつ葛藤している記述が増えて、モヤモヤとしてなんだかもどかしい気持ちにさせられる。
自分は、「時代はきっとよくなってる」と信じたい人間で、確かにノスタルジーは麻薬のように頭を痺れさせる。しかし「昔は良かった」と言ってしまうと目の前の堕落していく現実、ひいてはどんどん悪くなる未来を傍観してるようで、なんだか現実逃避しているように思えてくる。すべてをたたき壊して踏みつけていくのを良しとはしない。残すべきものは残すべきだ。お金をかけてでもコスト度外視ででも。
でも、その懐かしさのために「この辺りでおすすめはイオンやで」というおっちゃんたちを複雑な気持ちで見てしまうという著者には、なんだか首肯し難い。
ちなみに、最初に書き連ねたサンパルの古書店もあかつき書房ももうなくなってる。モトコーもずいぶん変わっただろうしメトロ神戸の長大な古書店も縮小してるんだろうな。神戸に今も残ってる変わらぬ街並みや風景は懐かしい。でもきっとそれらも変わっていく。形あるものはすべてなくなるからなあ。今あるものを愛しみ、愛しているものへ愛を伝え、それを留めようと写真や文章を綴る。自分が見聞きしたものを感じた感情を何らかの形で残したくてしようがないのが人間で、平民さんの本の特に序盤での記述は、具体的な土地にリンクされたエピソードからやがて失われるものへの愛の表現につながってたから、とても好きだった。
自分もそんなふうに文章を書きたい、と思う。
…とはいいつつ、またメトロ神戸もぶらぶらしにいきたいな。